捕鯨の歴史・文化
クジラの町・下関へ
戦争が終わると、食料不足と、動物性蛋白質の確保が急務となりました。 この両面を解決する方策として、昭和 21 年( 1946 )に捕鯨が再開され、 その第一船は、下関の唐戸港から小笠原へ向けて出港しています。 そして、次の年から本格的な南氷洋捕鯨が再開され、 下関はクジラによって戦後復興を遂げたといえるほどの繁栄をもたらしました。 大洋漁業は、プロ野球の球団「大洋ホエールズ」(現在の横浜ベイスターズの前身)を組織し、 女性吹奏楽団・ペンギンシスターズ(全国コンクール優勝)などを擁し、 下関最大の祭り「みなと祭り」には、大きなクジラの山車が市中を練り歩き、 漁港節という歌の歌詞には、「札束積んで・・・」と歌い込まれ、 クジラ料理専門のレストランも営業するなど、クジラの町・下関という名称さえありました。 これは、昭和 30 年代から 40 年代にかけて、下関に水揚げされた鯨肉が、 最高で 2 万トンにも達していたこと、 捕鯨船の造船など水産関連産業が隆盛していたことに、裏付けられたものです。 しかし、南氷洋では、捕鯨オリンピックと称し、世界の国々がクジラを競って捕獲したため、生息数は激減。 昭和 62 年( 1987 )、ついに商業捕鯨禁止という終末を迎えることになりました。 |
林兼産業と親子クジラのネオンサイン (注意:現在ネオンサインはありません) |
「みなと祭り」のクジラの山車 |
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